コミュニケーションを取る意味の本質を教えます!

コミュニケーションを取る意味の本質を教えます!

教える先生

 

今回は、コミュニケーションを取る意味の本質を説明します。

 

長文になりましたが、これを理解するとコミュニケーション能力を高めることが安易にできるでしょう。


人類がつくるピラミッド形の支配構造

近年、綿々と受け継がれてきた社会のあり方が変化しています。

 

欧米では産業革命以後、日本では幕末から戦後にかけて急激に変化しました。

 

とくに戦後の高度成長期(1955〜1973年)は、世界的にも例外的な好景気に恵まれました。

 

大量生産、大量消費に横臥し、このままいつまでも経済成長を続けていくんだと誰もが信じていました。

 

それは大日本帝国が大東亜戦争に負けるわけがないと、信じた時代とそっくり同じでした。熟練した労働者こそが企業の底力だとされ、終身雇用や、年功序列のシステムが誕生しました。

 

この時代の離婚率、非嫡出子率は日本史上稀に見ぬ低さで、世界からは「唯一成功した社会主義」と揶揄されました。

 

好景気の背景にあったのは米ソの冷戦です。冷戦が終わり、バブルが崩壊すると、日本はアメリカ型の自由主義経済に移行します。

 

自由主義経済とは、株主が主役の社会です。経営者が労働者を働かせ、上がった利益を株主に届けるシステムです。

 

これでは、ミクロ経済が良くなるはずがありません。

 

しかし人類は、国王や貴族がいて、それらの重臣がその他多数の国民を働かせて、その利益を支配者に届けるような「ピラミッド形の社会」を作るようにプログラムされた生物のようです。

 

人類の歴史は、このピラミッドを壊しては作り、また壊すの繰り返しです。

 

今後もこの繰り返しは続くでしょう。

 

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産業革命後の経済構造の変遷

第二次世界大戦効果の期限は切れました。

 

ほぼ全ての先進国で経済が悪くなっています。

 

そして、収入の格差が極端になってきました。

 

大量消費型経済の逆を「ニューエコノミー」といいます。

 

ニューエコノミー下では、専門的な能力を必要とされる職種と、マックジョブのようにマニュアル通り働く職種に二極化されます。

 

これは、収入の二極化でもあります。同時に将来の希望も二極化します。

 

現在マックジョブに従事している人が、頑張って働いて、会社に認められて、出世し、やがて重役になる可能性はありません。

 

あったとしても極めて例外的で、統計上は「その他」に分類されるでしょう。

 

そんなことがあればニュースになります。

 

北半球の先進各国は成長のピークを越え、今後は下降の一途を辿ります。

 

ユーロ圏のリーダー的存在だったドイツの「ドイツ銀行」が破綻の危機に直面しています。

 

ドイツ銀行ショックはどんでもない大不況を招くことが予想されています。経済不調は今後さらに深刻な二極化をもたらす可能性があります。

 

ところで、先進国の住民は、経済的な要件だけでは幸福になれません。

 

充分な収入があっても、心理的な要件が満たされなければ幸福にはなれません。

 

そのためには集団の一員として社会から認められ、心理的な「居場所」を確保しなければなりません。

 

詳しくは後述します。

 

産業革命の副作用

 

しかし分業が発達し、伝統や常識の拘束力が弱くなりました。

 

マルクスは「史的唯物論」で、歴史のもっとも根底的な原動力を、生産物の発展と考えました。

 

そのうえで、支配階級とは、その時代の生産に必要な資源(資金など)を支配する階級であると位置づけ、その問題点を挙げています。

 

「資本主義社会では、利益を得るのは汗を流して働いた労働者ではなく、資本家である」という問題点です。

 

広がる格差に、労働者たちの鬱憤がどんどん蓄積されて行く中、それをなんとか抑えようとする動きが見えてきます。

 

民法の発達がそれです。

 

民法とは社会全体ではなく、社会の一員である個人の権利を守ろうとする法律です。

 

違反者を罰することよりも、損害を受けた被害者を救済することが目的になります。

 

さらに一般選挙制が導入され、大衆という勢力が誕生し、社会は「民主主義的なもの」を目指します。

 

しかしこれは理想通りのものにならず、出来上がったのは「近代官僚制」でした。

 

その結果、庶民は今まで以上に部品の一部として管理されるようになってしまいました。

 

目指したのは、個が尊重される理想社会でしたが、辿り着いた先はなんとも不気味な、よくわからない社会でした。

 

その進化系が現在の社会システムです。

 

グローバル化した日本は、ここ十数年で懸命にアメリカ型の社会システムを取り入れようとしています。これは産業革命の副作用的な社会構造です。

コミュニケーション能力が求められる理由

少し欧米に目を向けてみます。

 

十八世紀末の産業革命以降、皆が巨大な工場で働くようになり、固有の役割がなくなり、人々は「わたしたちの存在意義は何か」に悩むことになります。

 

そして、ストレスやノイローゼに苦しむ時代が始まります。これは分業化の副作用です。

 

分業の結果、日々の仕事は単調なものになりました。

 

合理化によって社会が断片化され、自分の仕事の意義が見えにくくなってきます。

 

分業が未発達の時代(環節的社会)には共同生活の単位が小さく、皆が顔見知りで、名前や家族構成も知っていて、最低限の価値観を共有していました。

 

それでも「変わり者」というニッチ市場は残るはずですが、深刻な労働力不足は解消されそうです。

 

そういった流れは運転手のみならず、倉庫の管理人や事務員のロボット化の波に飲み込まれていきます。

 

人工知能の成長は、我々の創造を軽く飛び越えていくでしょう。

 

例えば、英語が喋れることは特技ではなくなります。もともと英語は学問ではありません。

 

英語圏へ行けば小学生でも、刑務所の囚人でも話しています。

 

それよりは、ロボットが確実に理解できる正しい日本語力を身につけることのほうが重要です。

 

先進国で使われる一ヶ国語を正しく話すことができれば、あとはロボットが通訳をしてくれる時代になるからです。

 

だからと言って同時通訳や翻訳家がすぐに失業することはないと思いますが、長期的には確実に斜陽化します。

 

「学問ではない何か」を武器にした仕事は軒並み斜陽するでしょう。

 

未来に残る仕事は既得権益化された仕事、ロボットに接する仕事、または人と直接向き合わなければ成立しない仕事です。

 

いわゆる、コミュニケーション能力が必要な仕事になります。

 

そして人類は次のステップへ向かうことになります。

 

産業革命の影響は、市民革命、宗教革命にも及びました。

 

IT革命(もしくはロボット革命)後も大きな価値観の変化がもたらされると予想できます。

 

コミュニケーションをスムーズにするための条件

 

さて、コニュニケーション能力を高めるにはどうすればいいか。

 

いろんな人がいろんな持論を展開しています。

 

それらの意見がリライトされて、あちこちに散らばっています。

 

しかしわたしは、意外にシンプルなものになるのではないかと思っています。

 

大雑把には、社会の一員であること、人間性が健全であること、価値観がはっきりしていること、あたりに集中していそうです。

 

あれこれと小手先のテクニックを覚えても疲れるだけです。

 

猫の飼い方と犬の飼い方を別々に覚えるよりも、動物の飼い方を覚えたほうが手っ取り早いはずです。

 

例えばミラーリングというテクニックは、相手が動作するタイミングで、自分も動作することで親近感を引き出そうちうものです。

 

しかし、こんなことをまったく知らなくてもコミュニケーションが得意な人のほうが圧倒的に多数です。

 

むしろ小手先の手練手管は信用を失うことがあります。

 

ビジネス書などに書いてあるようなテクニックは、安易に披露するべきではありません。

 

相手も同じ本を読んでいたらどうするのでしょう。本来は自然にできることなのに、余計な知識で歪めてしまうこともあります。

 

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社会の一員であるために持つ専門

グローバル化以前の社会では、ほとんどの人に担当分野がありました。

 

もっと遡って、戦前の村社会には、鍛冶屋、八百屋、床屋、大工、料理人など、多くの人に親から引き継いだ専門がありました。

 

戦後の高度成長期には自営業者が減って、サラリーマンが増えますが、それでも熟練した労働者が必要とされた時代で、皆が何らかの専門を持ち、現在でいう派遣社員やフリーターのような「何でも屋」はごく少数でした。

 

その専門こそがアイデンティティであり、身分証明でもあったわけですが、現代ではそういうものが薄れつつあります。

 

専門があれば、コミュニケーションは容易いものになります。

 

例えば八百屋という専門があれば、その季節にはどんな野菜が旨いか。何が旬で、どんな食べ方がいいかなどをアドバイスすることができます。

 

客にとって親切な店は重要なパートナーです。

 

その客にもなんらかの専門があって、例えばそれが魚屋なら、今度はその知識で社会に貢献できます。

 

社会が「役割の集合体」なら、自然派生的にコミュニケーションが成立します。

 

冒頭で述べたように、人には「居場所」が必要です。

 

社会の中の居場所とは、責任を負う場所です。

 

ある役割を担当する場所という意味です。職業とは限りません。

 

自宅の前の公園の草引きでもいいでしょう。

 

自己満足の趣味とは違う、社会のためになる実用的な専門があれば、社会との結びつきが強くなります。

 

例えば、ぬいぐるみを作る趣味があっても誰の役にも立ちません。

 

そんなもの貰っても迷惑なだけです。

 

しかし、特殊なミシンを持っていれば役に立つかもしれません。

 

誰かがこれを縫って欲しいと頼まれたとき、快く縫ってやれば感謝されますし、その人がその功績を口コミで宣伝してくれれば、知人の知人に頼まれて世間の役に立てるかもしれません。

 

「この人がいないと困る」と、周囲に認められることで居場所ができます。

 

町に一軒の自転車屋には、自転車屋という居場所があります。

 

料理屋には料理屋という居場所があります。

 

普通の事務職ではそういう専門がないかもしれませんが、町内の役を進んで引き受けたりすると感謝されます。

 

パソコンに詳しい人は重宝されます。

 

パソコンにトラブルは付き物なので、守備範囲が広くなります。

 

ポスターを出力できるような大きなプリンタを持っている人は重宝されます。

 

会社内では、どこそこの掃除を進んでするなど、本来は当番で回ってくるような仕事を進んで引き受け、そこに責任を持つことで居場所を確保できます。誰もがあなたのことを軽く見なくなります。

 

周辺の感謝はあらゆる形で現れ、味方が確保され、その後のコミュニケーションを有利にします。

栄養状態に気をつけ、心身の健全を保つ

西洋には、「汝とは、汝の食べたものである」という言葉があります。

 

わたしたちの体は、爪の先から髪の一本一本まで食べたもので合成されています。

 

生まれた時の細胞など一つも残っていません。

 

当然、ココロも食べ物の栄養素でできています。

 

少年の非行の原因のひとつに、食事の乱れが指摘されています。

 

「キレやすい」には低血糖が原因していることが分かっています。

 

ジュースなど糖分の強いものを飲むと血糖値が急激に上がり、大量のインスリンが分泌されます。

 

そのため低血糖に陥り、脳機能に障害が起こります。

 

少年だけではありません。

 

刑務所に入ってしばらくすると気持ちが落ち着いてくるのに、釈放されて数週間するとまた暴れだし、極端な異常行動を起こす人がいます。

 

わたしたちはアレルギーについて、皮膚炎やアトピーを連想しますが、ココロの病気に近い症状を起こすこともあります。

 

例えば卵アレルギーの子が卵を食べると、イライラしたり飽きっぽくなったりします。

 

小麦アレルギーの人がパンを食べて暴力的になることもあります。

 

家庭内暴力や虐待の原因が食事だったりすることもあります。

 

アメリカでは、犯罪を起こしても、その原因が食物アレルギーの場合は責任能力を問われることがあります。

 

アレルギーになりやすい物質は蓄積性があります。

 

ジャンクフードやスナック菓子、糖分を多く含んだソフトドリンクなどを常食していると、いつの間にかアレルギー体質になって、それが精神異常の原因になることもあります。

 

脳の機能障害は栄養が不足した場合にも起こります。

 

ビタミンB3が不足すると、うつや精神疾患の原因になる可能性があります。

 

B6の不足はイライラと記憶力の低下、B12の不足では錯乱と記憶力低下が起きる可能性があります。

 

ビタミンB群は日本人が主食としてきた雑穀やイモ類に多く含まれています。

 

さらにカルシウムが不足すると、イライラの原因になります。

 

マグネシウムが不足すると神経過敏になり、怒りっぽくなります。

 

鉄が不足するとストレス抵抗力が低下します。

 

亜鉛不足で情緒不安定に、ビタミンCの不足で忍耐力低下など、挙げればキリがないので割愛します。

 

バランスのとれた食事に、気をつけていれば何かが極端に不足することはありません。

 

ココロが不安定な人に近づく人はいません。

 

とくに暴力的な人とのコミュニケーションは面倒です。

 

女性なら身の危険に晒されることもあります。

 

人に受け入れられる健全なココロをつくるためにも、外食や中食を控えたいものです。

価値観を明確にする

わたしたち個人は、なんらかの価値観に基づいて行動しています。

 

すべてにどっちつかずでは、敵を作りませんが、味方もできません。

 

集団は、少し大きくなると派閥が派生します。

 

3人や5人の集団ならひとつにまとまりますが、30人の集団ではすべての人と均等にコミュニケーションをとることはできませんし、意見の相違も目立ってくるので、いくつかの小さなグループに別れます。

 

ときにはグループ同士で対立することもあります。

 

どのグループにも属さない、どちらにも付かない中立な人は、集団全体のリーダーか、もしくは孤立した存在です。

 

グローバル化がもたらしたもののひとつに「価値観の多様化」があります。

 

ずっと以前の村社会なら、体勢と異なった意見を言うことはできない雰囲気(同調圧力)がありましたが、今はもっと広く、いろんな意見を認めようと言う雰囲気ができています。

 

しかしあれも認める、これも認めるでは、自分というものが存在しなくなってしまいます。

 

「それは間違っている」とか、「それは好きではない」と言える人間関係を築くことが大切です。それは集団の中の地位でもあります。

 

例えば原発に賛成するか、反対するか。

 

「興味が無い」というのも回答のひとつですが、あれにもこれにも興味が無いでは通じません。

 

片方が賛成で、片方が反対なら意見交換というコミュニケーションが成立します。

 

両方とも反対、または賛成でも「確認」というコミュニケーションが成立します。

 

しかし、どちらかが「興味なし」の場合は対話は成立しません。

 

その場合、「自分は興味はないが、採決するなら誰々の意見に同調する」などの意志表示が必要です。

 

つまり、自分はグループに所属していて、自分にとってどっちでもいい議題に関しては、所属集団の意見を尊重するという意志を表示します。

 

どっちつかずで何を考えているか分からないような態度は不信感しか持たれません。

 

コミュニケーション能力のある人は当然、友だちや仲間が多いはずです。

 

誰とでも気軽に話せる開放的な性格なのに、友達は一人もいないという人は、コニュニケーション能力が欠如しています。

 

人は誰でも本能的にグループを作ろうとします。

 

町内会から政界まで、純粋な多数決など存在しません。

 

グループ同士の折衝、話し合いで意見がまとまります。

 

コミュニケーション能力とは、平たく言えばグループをつくる能力のことです。

 

またはグループに所属する能力です。

 

民主的な多数決にしても、武力衝突にしても、大きな集団のほうが有利になります。

 

そんな大きな集団の中で立ち位置を維持し続ける力こそが、強いコミュニケーション能力でしょう。

コミュニケーションの根幹は「信用」

グループをつくる、または所属するためには「信用」が必要です。

 

簡単に仲間を裏切るような人を集団に加えると危険です。

 

「この人はこういう人だ」というわかりやすさも信用のひとつです。

 

そのために価値観を公にします。ブログに書くのもいいでしょう。その場で消えてしまう言葉よりは、後に残る文章のほうが明確です。

 

関係の浅い人に対しては、本名を出し、顔写真をアップしてはじめて信用に結びつきます。

 

匿名のブログに信用は宿りません。

 

よっぽど長く続けているブログなら例外もありますが、玉石混交のネット社会で「匿名の意見」が重要なソースとして引用されることはありません。

 

信用とは、これまでの生き方や経歴のことですが、身分証明を提示できることでもあります。

 

ときどき住所、電話番号のない、連絡先は電子メールのみという名刺を受け取ることがあります。

 

女性の場合はある程度やむを得ないところがあるのかもしれませんが、それなら名刺を出さないほうがよく、名刺を切らしていると言って、手近な紙にメールアドレスだけを書いて渡すほうが信用を保てます。

 

ただし、わたしたちは本名を明かすことに必要以上の恐怖を植え込まれている可能性があります。

 

日本では極端な匿名社会化が進んでいます。

 

そんな雰囲気では躊躇してしまうのも頷けます。

 

これに関して明快な回答ができないことを残念に思います。

 

ただ、本名を開示するリスクと、開示することで得られるリスクを天秤にかけた場合、後者のほうが大きいのではないかと思います。

 

もうひとつ、悪木盗泉に近寄らないことも大切です。

 

ビジネスの現場で実際に困ることは、初めて会う人が反社会的勢力の一員ではないかと疑うこと、または疑われることです。

 

反社会的勢力との商取引は違法です。知らずにの取り引きだったとしても信用が大きく傷つきます。

 

もうひとつ、新規の取り引きではちゃんと支払いがあるかどうかという不安があります。

 

コミュニケーション能力には、不適切な相手と距離を置く能力も含まれています。

 

昨日まで知らなかった人とは、急接近して仲良くならないように気をつける必要があります。

 

犯罪ばかり繰り返している人や、犯罪ではなくても公序良俗に反することに手を染めている人かもしれないからです。

 

人物を評価するときは、その交友関係にも基準にするべきです。

 

信頼できる人からの紹介ならそういう不安はありません。

 

人との付き合いの多くは「紹介」から始まります。

 

偶然道で出会ったとか、ネットで知り合った人と急接近するのはリスクを伴います。

 

もちろん長い期間をかけて、意見交換を繰り返しながら少しずつ親しくなるぶんには問題ありません。

 

友だちなんてそう簡単にできるものではありません。親友が百人もいるというなら、親友でもなんでもないはずです。

 

信用できない人とのつきあい方

 

こちらが誠実で、健全で、信用があればコミュニケーションに困ることはありません。

 

しかしこれは、相手がごく普通の人の場合の話です。

 

世の中にはまったく信用できない人もいます。人と親しくなるにはある程度の期間が必要です。

 

信用できる人の紹介なら、その期間が熟していなくても信用できることがあります。

 

しかし誰の紹介でもない人を信じるのは危険です。

 

人々が心を許しあい、信じあう理想世界は犯罪者の温床でもあります。

 

ばい菌や害虫がいると同じようにサイコパスはいます。

 

そしてそういう人たちは往々にして「いい人」に見えます。

 

アスペルガー症候群ででもなければ、すべての人にコミュニケーション能力は備わっています。

 

それでもコミュニケーションができない人がいるのは、こういう人と出会ってしまった過去の記憶が歪んだバイアスをかけているのかもしれません。

 

友人を紹介してくれない人は要注意です。

 

わりと長い付き合いなのに、彼、彼女の友人には会ったことがない、という人は、何らかの理由があるとしか思えません。

 

人脈は、友人知人を介して蔓のように広がっていくのが普通ですが、ある枝だけそこで止まっていることがあります。

 

あなたを紹介したくない理由があるのかもしれませんし、紹介できる知り合いがいないのかもしれません。

 

いずれにしろ秘密主義的な人(自己開示がない人)は信用に値しません。

 

具体的には自分のプライベートをまったく見せない人などです。

 

そういう人の話は、嘘で固められている可能性もあります。

 

虚言癖があるため、逃げ道を確保している可能性もあります。

 

友人知人を紹介してしまうと、そこから足がついてしまうからです。さらには妄想を抱いている可能性もあります。

 

虚言癖の根底にあるのは極度の劣等感です。

 

また自分の病気のことばかり話す人は、ミュンヒハウゼン症候群の可能性もあります。

 

ミュンヒハウゼン症候群とは、同情を集めるためだけに病気を装う症候です。

 

いずれも普通の人との境界は曖昧です。

 

誰もが常に小さな嘘をついています。しかし人に迷惑をかけるような嘘をつく人は困りものです。

 

相手が、過去に平気で人を裏切るような行為を繰り返していたとしても、自分はなんの被害も受けていないから関係ない、などと思いながら付き合うのはもっての他です。

 

そういう人はあなたのことも裏切ります。

 

サイコパスに出会ってしまったあとの後遺症は深刻です。

 

人を信じられなくなってしまうかもしれません。

 

人の醜さにうなされて眠れない日々が続くかもしれません。

 

「嘘は泥棒の始まり」と言いますが、嘘をつく人は害にはなっても益になることはありません。

 

近づかないことです。身体のことではなく、心を近付けないことです。

 

具体的にはどうすればいいのか。簡単です。まったく信用しないことです。

 

会話はする、誘われれば飲みにも行く、いただき物をしたらお返しもする。

 

でも一切信用しない。聞いた話はすべて「嘘かもしれない」と心で唱えます。

 

他の人に「あの人の話は嘘かもしれない」と助言する必要はありません。

 

一言でも他人の陰口を言えばあなたというブランドに傷がつきます。本当に必要なときは言葉を濁すだけで伝わります。

まとめ

コミュニケーション能力とは、グループをつくる能力のことです。

 

それは味方を作る能力のことです。

 

健全な人には普通にできることです。

 

もしできないのなら、過去になんらかのトラウマを抱えているのかもしれません。

 

人は集団になると強くなります。

 

ひとりではできないことも集団になるとできることがあります。

 

ひとりでは戦えなくても、集団でなら戦えることがあります。

 

人生の課題は「どんな人と出会えるか」という一点にかかっているかもしれません。

 

それは配偶者であったり、同僚であったり、趣味の仲間、近所の住人、ネット上の知り合いなど様々でしょう。

 

誰もがいつかは死にます。死の間際、走馬灯のように関わった人々の顔が流れるかもしれません。

 

人生とは、誰とどう過ごしたかでしかないからです。「ああ、楽しい人生だったなぁ」と懐古して死ねる人生こそ、ほんとうの良い人生なのかもしれません。
茶人、千利休はわたしたちに「一期一会」という言葉を遺してくれました。

 

出会いは生涯で一度限りである。だからこの縁を大切にしなければならないという意味です。

 

偶然のちょっとした出会いが人生を変えていくことがあります。

 

人との出会いを粗末にすれば、訪れるべき人生の変化、好転を逃してしまうかもしれません。

 

それは対人術などという手練手管ではなく、もう少し純粋なものだと個人的には思います。

 

あなたによいコミュニケーションが訪れますように。

 

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